* AtelierUNな毎日 *

 >  観劇・音楽 など >  シェイクスピア >  ハムレット

ハムレット

img256.jpg img262.jpg
あまりに有名なハムレットだけど、ご高名はかねてよりの割にはこれまで映像でも舞台でも見たことがなく、ちゃんとストーリーを知っていたとは言えないのだが、今回のハムレット、う~ん・・・消化不良というか・・・気持ちが全く動かなかった。非常に残念。

自分でもどこがどうだとはっきりわかっているわけではないけれど、とりあえず思考の断片を箇条書き

・海外に持って行くときの演出が和調なのはわかっていたけれど、能囃子あり、(歌舞伎の)暗闘(だんまり)あり、ツケあり、終いにはひな壇に載ったお雛様・・・通して使われている舞台装置が(シェークスピアが初めて日本に伝わった頃の)19世紀の日本の貧しい長屋・・・嗚呼、ここはデンマーク王室なのだよ。

・平幹二朗さんは素晴らしい役者さんだと誰もが知っているけれど、御歳81歳。兄を殺し、その妻を寝取り、兄の実子(=ハムレット)を殺そうとするクローディアスの毒々しさを表現するにはあまりにも動作もセリフも緩慢。 
その御歳81歳の方に下帯ひとつの裸になって水ごりさせるって・・・ひどくない? 大丈夫?無惨と観客は思いながら見ていて劇に入りこめる?
・クローディアスが弱々しい分、ハムレットの憎しみが上滑りして見える。

・狂ってからのオフィーリアはよかったけれど、狂う前のオフィーリアはぶっきらぼうな満島ひかりだった。狂気を演じるの(だけ)が上手い役者さんなのかもしれない。
・オフィーリアの狂気がリアルな分、ハムレットの装っている狂気が安っぽく見えてしまう。

・墓の中のオフィーリアはなぜ人形だったのだろう。唯一ハムレットがオフィーリアを愛しているという場面なのに。

・フォーティンブラスの内田健司くん、ネクストシアターからの抜擢で将来を嘱望されているのかもしれないけれど、ほぼセリフが聞こえない。1階席の真ん中より前で聞こえないということは・・・。(40回近く演っていて、誰も直さないのか。直せないのか。聞こえなくてよいのか)

・唯一納得できたのがホレイシオの横田栄司さん(シーザー)でした。

結局、どの主要人物にも共感を持てず、感情移入ができなかったのでカタルシスも得られず、感動もできなかったわけで、それは台本が悪いのか、演出が悪いのか、役者が悪いのか、アンサンブルが悪いのか(アンサンブルが悪いのは演出が悪いのか?) よくわからず仕舞い。
要は何かにつけアンバランスなのかな。

藤原竜也くんが12年前に21歳で演って賞をとりまくったときのハムレットが見たかったと(今さらながら)思う。
     YouTubeにありました。 → LINK


蜷川幸雄80周年記念作品 彩の国シェイクスピア・シリーズ番外編
ニナガワ×シェイクスピア レジェンド 第2弾

ハムレット

シェイクスピア作品の中でも最高峰と名高い『ハムレット』。演出の蜷川幸雄氏がこれまで何度も向き合い上演してきた本作品が、2015年新たに誕生します。蜷川氏は日本を代表する演出家として、現代劇からシェイクスピア、ギリシャ悲劇と幅広い作品を世に送り出してまいりました。その活躍の場は国内にとどまらず、1983年のヨーロッパ公演を皮切りに日本発の文化、芸術作品を海外に発信し続けています。その創作活動は広く海外でも注目され、高い評価を得ているところです。
そして、蜷川氏が80歳という記念すべき年を迎える2015年、世界各国を巡るワールドツアーを含む、数々の周年記念作品が企画されています。そのひとつである、本作『ハムレット』はこれまで蜷川演出の日本人カンパニーで7度上演されましたが、今回は12年ぶり・2度目となる藤原竜也のハムレットで世界に挑みます。藤原竜也は2003年、日本演劇史上最年少の21歳でタイトルロールを演じ、主な演劇賞を総嘗めにしました。今回、オフィーリア役に蜷川作品初登場の満島ひかり、兄・レアティーズ役に満島ひかりの実弟・満島真之介、さらにガートルード役に鳳蘭、クローディアス役に平幹二朗を迎える、豪華キャストが実現しました。本作は日本国内公演後、台湾公演2015 Taiwan International Festival of Arts、ロンドン公演bite15に参加することが決定しております


演出  蜷川幸雄
演出補  井上尊晶
作   W.シェイクスピア
翻訳   河合祥一郎
出演
  ハムレット   藤原竜也
  オフィーリア  満島ひかり
  レアティーズ  満島真之介
  ホレイシオ   横田栄司
  墓掘り      山谷初男
  座長       大門伍朗
  ホローニアス  たかお鷹
  ガートルード   鳳 蘭
  クローディアス/亡霊 平幹二朗  
内田健司* 塾一久   廣田高志  間宮啓行  妹尾正文  岡田 正  清家栄一  新川 將人  星 智也  野口和彦  浦野真介* 手打隆盛* 堀源起*  松田慎也*  砂原健佑* 竹田和哲* 他
*…さいたまネクストシアター

彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 2015/1/22(木)~2/15(日) 全29回
梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ  2015/2/20(金) ~ 3/1(日) 全11回
台湾・國家戲劇院 3/26(木)~3/29(日)
ロンドン・バービカン劇場 5/21(木)~5/24(日)
1幕 1時間40分  休憩 15分  2幕 1時間35分  合計 3時間30分 



カーテンコール、真っ先に立ってブラボーと声をかけてらしたのは吉田鋼太郎さん。
クローディアスが吉田鋼太郎さんだったらと考えてしまった。もちろんガートルードも変わるわね。
他にも俳優さんをお見かけしたと後ろの席の男の子(満島ひかりファンらしい)が言ってました。

ハムレットは別の演出、別の役者で見に行かないといけないような気がする・・・


Read More


『ハムレット』が内包する宗教問題 (更新 2015/1/ 8 15:00)

シェイクスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』。主人公の王子ハムレットは、敬愛する父を殺し、母と再婚して玉座に着いた叔父クローディアスへの復讐を誓うが、ことあるごとに逡巡し、計画は遅々として進まない。ここには、当時のイギリスに存在していた宗教問題が深く関係していると東京大学大学院教授の河合祥一郎(かわい・しょういちろう)氏は話す。

* * *

王子ハムレットは、死んだ父の亡霊から復讐を命じられますが、その復讐をためらう最初の原因は、そもそも亡霊が本物なのか、それともその正体は悪魔なのか、という疑問にあります。
ハムレット (……)俺が見た亡霊は
       悪魔かもしれぬ。悪魔は相手の好む姿に身をやつして
       現われる。そうとも、ひょっとして
       俺が憂鬱になり、気弱になっているのにつけこんで
       まんまと俺をたぶらかし、
       地獄に追い落とそうという魂胆(こんたん)か。
       もっと確かな証拠が欲しい。それには芝居だ。
       芝居を打って、王の本心をつかまえてみせる。 (第二幕第二場)
実はここには、カトリックとプロテスタントという、当時の宗教問題が関係してきます。亡霊という存在を認めるのはカトリックだけで、プロテスタントでは死者の亡霊などというものは認めていません。プロテスタントの見方からすれば、これは悪魔が見せる幻影ということになります。つまりハムレットは、カトリックとプロテスタントのあいだで揺れているという解釈もできるのです。その歴史的背景を少しばかり見ておきましょう。
エリザベス1世の父ヘンリー8世はカトリックでしたが、なかなか王子に恵まれないので離婚して、6人の妃を次々に取り替えたことで有名です。しかしカトリックでは離婚は許されません。最初の王妃と別れようとしたとき、ローマ法王に許しを請いますが、すげなく断られます。法王と対立したヘンリーは1534年、カトリックを廃してイングランド国教会をイングランドの公的宗教に定めて、国ごとカトリックから離脱してしまいます。王が離婚したかったから国の宗教を変えてしまったという、冗談のような本当の話です。こうして、急速にプロテスタント勢力が台頭してきます。
ヘンリー8世の死後、幼い息子のエドワード6世はかなりプロテスタント寄りの治世を行いますが、次に姉のメアリ1世の治世になると、彼女は熱烈なカトリックの信者だったので、カトリック国のスペイン王と結婚してプロテスタント狩りをはじめます。プロテスタント大虐殺に由来する“ブラッディ・メアリ”(血なまぐさいメアリ)という呼び名は、真赤なトマトジュースとウォッカのカクテルの名前としていまも残っています。
ところが1558年、姉に代わって妹が即位してエリザベス1世になると、再びプロテスタントに戻り、今度は逆に厳しいカトリック狩りの時代になるのです。
シェイクスピアの父親ジョンは、敬虔(けいけん)なカトリックでした。一家の没落は、国教会に睨(にら)まれたことが原因ともいわれています。息子ウィリアムの人生に謎の空白期間があるのも、実はカトリックという出自からきているのではないかと、私は推理しています。
第一幕第五場で亡霊がハムレットに復讐を命じるときに、「終油の秘蹟(ひせき)も、懺悔(ざんげ)の暇(いとま)もなく」殺されたので、「赦(ゆる)しも受けず、この身に罪を負ったまま」死んだことが恐ろしい、と言います。つまりこれは、生前の罪をカトリックの儀式で清めて天国に行くことができなかったと嘆いているのです。
また、ハムレットが叔父の犯罪を確信したあとの第三幕第三場で、祭壇に跪(ひざまず)いて祈るクローディアスを殺そうと「今ならやれる」と剣を抜いたのに、ためらってやめてしまうのは、決して行動力がないからではなく、懺悔している最中のクローディアスを殺してしまうと、「この悪党を送ってやるのか、天国に」というキリスト教的な発想があるからです。
カトリックの文化が情熱的だとすると、プロテスタントは理性的で冷静です。それは熱情の中世と理性の近代という対比とも相似形です。理性的な男の代表として登場するハムレットの親友ホレイシオは、亡霊に会いに行こうとするハムレットに、「殿下の正気を奪い去り、狂気へ引きずり込もうというのかもしれません」(第一幕第四場)と警告します。ハムレットがあとで冷静になって、「悪魔は相手の好む姿に身をやつして現われる」(第二幕第二場)と言うのは、自分の想像力が歪められて、父の亡霊を見せられているのかもしれないと思うからです。
シェイクスピア別人説でも候補に挙がった哲学者フランシス・ベーコンをはじめとして、当時の認識論では、人は視覚による光学的な情報だけでなく、心による想像力の働きでものを見ると考えられていました。〈心像〉というものが頭の中でつくられ、それを脳が認識する。だから、正しい想像力が歪(ゆが)められてしまうと、間違ったものを見てしまう。そこから、〈真実を映し出す鏡〉としての芝居という発想も出てきます。
■ シェイクスピア『ハムレット』 2014年12月 (100分 de 名著) より 




     -----×-----×-----×-----×-----×-----×-----×-----×-----×-----


(評・舞台)「ハムレット」 大胆な進行形の蜷川演出  @朝日新聞 2015年1月29日16時30分

 演出家・蜷川幸雄にとって8度目の挑戦となるシェークスピア劇「ハムレット」(河合祥一郎訳、ホリプロ企画制作)。今回は大胆な新しい試みをしつつ、これまでの蜷川演出の総集編的な面もある舞台だ。

 新演出の第一は、古い日本の貧しげな長屋の装置を使ったこと。蜷川演出の「唐版 滝の白糸」などに登場したセット(朝倉摂・中越司美術)で、西洋風の衣装で演じられる劇とは明らかなズレがある。

 これは日本人の生活感と美意識を元に西洋の古典劇を上演しようという蜷川の意思の表明だろう。だから蜷川は劇自体との距離感を承知の上で、日本人にとって一種の原風景である廃屋風の長屋の前で物語を進行させた。

 ただし、異化作用が強いことを考慮してか、劇中ではこの背後の装置を照明の効果で隠す場面が目立つ。異彩を放つこの装置はもっと見せてもいいのではないか。

 劇中劇の場では、かつて蜷川が別の「ハムレット」の演出で使って効果を上げた、日本の桃の節句のひな壇が再現される。

 藤原竜也はこれが蜷川演出の下での2度目のハムレット。熱い行動的な演技がさわやかで、寝室の場では母の王妃(鳳蘭)に近親相姦(そうかん)的な愛憎で激しく迫る。ただし、もう少し知的な鋭さがほしい。

 王クローディアス役の平幹二朗は存在感のある出色の演技。特に王の祈りの場面で裸になり、井戸の水を頭からかぶって日本風のみそぎをする新演出は意表を突く。81歳でこうした演技をする平の果敢な精神に圧倒される。

 79歳の蜷川が見せる、まだ進行形という感じの「ハムレット」である。(扇田昭彦・演劇評論家)



  ↑ ずいぶん褒めたものだなと思ったのだけど


(演出家の独り言 蜷川幸雄)やっぱりいいよな、芝居の稽古は @朝日新聞 2015年1月30日16時30分

 きのう、朝日の夕刊に演劇評論家・扇田昭彦氏の「ハムレット」の最低の劇評が出た。

 そろそろ、戻ろうかな。

 ようやく演劇の現場に帰ってきました。やっぱり嬉(うれ)しいです。去年の11月以来のことですから、なにもかも新鮮です。ほんとうに嬉しい。自分がどんなに自立した人間だと思っても決してそんなことはないのだと、知らされました。本当に恥ずかしい。

 沢山(たくさん)の友人に助けられました。こんなふうに護(まも)られていたなんて! 気づきませんでした。

 まわりの人たちに、俺、少しやさしくなったろう?というと、みんなけげんな顔をします。誰が? みんなの顔には少しもやさしさなんてありません。みんな不思議な顔をします。さすがのぼくも、自分の認識する力のなさに気づきました。やっぱりそうか。

 芝居の稽古がはじまると、突然僕の羞恥(しゅうち)心は消え、どこかへ行ってしまいます。やっぱりいいよな芝居の稽古はという思いに、ぼくはしあわせになります。

 病後の第1作目は、シェークスピアの「ハムレット」です。「ハムレット」は凄(すご)い。ヨーロッパの知性の固まりのような演劇です。これを読みとき、演劇にすることは苦痛のようなものです。苦しい喜びといったらよいのでしょうか。こうしてぼくの苦闘はいくつになっても続きます。ヨーロッパの知性と闘いながら、勉強が足りなかったなと、わが若き日の怠惰を悔しく思います。

 ただ今度のフォーティンブラス王子の形象は、世界中に例のない新しいものができたと思っています。また例のうぬぼれか、と思われるかもしれませんが、ほんとうです。誰も作ったことのないフォーティンブラス像です。それにしても俳優がいいと、演出なんて楽なものです。


  「最低の劇評」って・・・どこをどう取って最低というのだろう??
  フォーティンブラス=内田健司をものすごく買っていらっしゃるみたいだが・・・


関連記事

Return

コメント






管理者にだけ表示を許可する